早稲田大学など難関私大の合格者は受験日本史とどのように向き合い、勉強していたのか。 土屋文明先生の授業を中心とした日本史学習を各時期にわたり詳細に調査。 合格した先輩たちのサクナビ学習の流儀を一挙公開します!
覚えない勇気
目の前にある問題は全て解答したい。受験生なら誰もが思うことである。
しかし、それは絶対に不可能である。
入試問題には教科書の範囲を大きく超える内容や、特定のグラフから推定される数値を知らなければできない問題も存在する。「全問正解」などという幻想は捨てるべきであった。
入試では解答不能な問題を"解かず"に限られた時間を有効に使い、得点を積み上げていくことで勝敗を競うゲームである。解けない問題を解こうと取り組んだ瞬間から、自分より相手に得点する時間を与えてしまっているのであるから勝ち目などあるわけがない。
バスケットやテニスにパーフェクトゲームがないことは子供でも知っている。勝利の過程にはこちらが予想もしなかった相手のファインプレーで得点を許してしまうこともあるのだ。多少の失点はまぬがれ得ないのである。失点を"許容" し、"コントロール"できるものが勝者となるのである。
一定量の語句を暗記しているであれば、合否を分けるのは語句量ではなく、正誤や史料、図版問題などの形式問題への取り組み具合である。
受験生はこうした問題の"取り組み方"で大きな過ちを犯してしまう。
形式問題には必ず解答できない問題が存在する。その問題に自分の知らない語句があると不安になりいつしかそうした語句を次々と覚え始める。形式対策をしていたのにいつしか語句の暗記に終始する学習にすり替わってしまうのだ。
形式問題の学習では「覚えない勇気」も大切なのである。
猜疑心と信仰心
「鰯の頭も信心から」ということわざがある。
ことわざの由来は、鰯の頭に柊(とげのある植物)をさして玄関に飾っておくと鬼が鰯の臭気と柊のトゲを嫌がり、家に災いをもたらさないという近世の迷信からきている。このことから、役に立たなくてつまらない物でも信仰すると尊いものにみえるという意味で使われる。
あなたに思い当たるふしはないだろうか。
本来、人は初めて経験するものを疑いその効果を検証しながら信じるに足るものかを実感し、信頼を通じて信奉するものである。効果がともなうからこそ人は知恵を増やし成長するのである。しかし、受験期ではこれが逆転してしまうことが多い。学習法に対する検証・実証よりも信仰心が優先され、学習がはかどらず成績が上がらなくても信仰した学習法を変えようとはしない。成績が上がらないのは学習法のせいではなく、自身の努力が足りないからだと自分に言い聞かせている。そしてもっと優れた学習法があったとしてもそちらの方を疑い否定してしまうのだ。
これが受験期中期に陥るもっとも危険な「誤り」である。
どうしてこうした誤りを犯してしまうのであろうか。
それは信仰の対象が実証に裏打ちされた学習法ではなく、自身のプライドや学習法を指導した講師となってしまっているからである。それ故それらへの絶対的信仰(帰依)が客観的に学習法を検証するということを阻害しているのだ。猜疑心と信仰心が逆転すると、その多くが救われることのない学習法を一片の疑いも持たずに信じ続けることになる。
覚えておくといい。
勝者が信仰、信奉するのは、成績を上げることのできる学習法のみだということを。
今、あなたが尊いものに見えているのは鰯の頭ではないだろうか。
行き先の違ったバスに乗り続ける愚
明らかに違った行き先のバスにあなたは乗っている。乗った当初は気がつかなかったが、しばらくするとあなたは間違いに気がついた。しかし、あなたはなぜかそのバスを降りてバスを乗り換えようとしない。どんどん目的地とは遠く離れていくバスの中で、あなたは行き先が変わることをひたすら願い続けている。
あなたがバスを降りてスタートラインにもどらない限り目的地にはたどり着くことはできない。バスの中で祈り続けてもバスの行き先は変わることがないのだ。そして間違ったバスの終点からスタートラインに戻り、再び目的地をめざすためには莫大な「費用」と「時間」がかかるのである。
どうしてあなたはバスを降りなかったのであろうか。答えは簡単である。途中でバスを降りてもう一度スタートラインにもどる勇気と決断力がなかったのである。
行き先の違ったバスに乗ったことが過ちなのではない。過ちは行き先が違うと分かっていながらバスを降りずに乗り続けたことなのである。バスの運転手があなたにとって感じのいい人でも、あなたの質問に丁寧に答えてくれたとしても、行き先の違ったバスに乗れば絶対に目的地には着くことができないのである。
これが、受験期の中期~後期に現れる、受験失敗の直接的原因となる「過ち」である。
特定の講師の指導に安住して、その学習法が自身の学力向上に寄与しているかどうかを検証せず、成績が上がらないことに対して指導者を変更することもしなかった。また、自身の選択の過ちに気がついても指導者を変更する決断をしなかったために受験時期が迫ってしまい、今さら指導者を変えるより現状を継続したほうがお金もかからず(親に迷惑をかけず)、成績があがるかもしれないと考えた。(というよりはそう願った。)
そして今、莫大な負担を親にかけさせて予備校に通うことになり、1年間の受験勉強という名の強制労働を強いられている。過ちに気がついても、それを正すための決断をしなかった代償は、正すための決断をしたときに払う代償よりもはるかに大きいのである。
あなたは行き先の違ったバスに乗ってはいないか。
そうであれば、今すぐそのバスから飛び降りろ!