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最大公約数となる授業

現在、私の授業は様々な媒体で紹介されているので、媒体の評価をみて私の講義を受講してくれる受験生が大勢いる。そして大部分の受験生はそのまま1年間受講してくれるが、指導方法や価値観などの違いで毎年少数の生徒は残念なことであるが私の元を去っていく。

そもそも、大学合格を目的として予備校に通ってくるのであるから、その教授法だけを割り切って学んでくれればいいのであるが、そうもいかない生徒や父兄の方もいるようである。予備校講師である以上、自分のやり方に従う生徒だけ集まればいいというのは講師のエゴであり、経営面からいってもマイナスである。とはいえ、すべての受験生に合致した(もしくは価値観にかなう)授業というのも、感情の起伏を全く入れずに熱意を伝え、すべての生徒の気分(その日も含めて)をいちどたりとも損なうことのない言葉や表現を選んで話しながらも90分間まったく生徒を飽きさせない興味と関心をそそる授業を展開し、かつ受験に必要でない専門的な知識を要求する生徒も、大学受験のための知識だけでいい生徒も納得できるレベルと内容を同時に満たす講義ということであり、そのような二律背反の授業はこの世には存在しない。

「何を言ってるんだ。指導はその中身が重要なんだ。自分の指導が悪いくせに生徒の価値観云々にすりかえるな」と、反論する方もいるであろう。では、予備校において、こと暗記科目の指導の中身とは何であろうか。来年の2月までに大学入学試験で点数のとれる知識をいかに多くの生徒に定着させ、合格へと導いてやることが予備校講師としての指導の中身ではないだろうか。抽象的で曖昧な教育観から教える側を批判するのは簡単である。しかし、そうした批判は時として情熱をもって教科指導に取り組む教師の熱意を削ぎ取ってしまうことに気がつくべきである。学校の先生方は経験があろうかと思う。学校の先生方は、そうした批判に反論もできず、徐々に教科指導への熱意を削ぎ取られていく。教育に情熱を注いでいた教師の方ほどその失意の念は大きい。そして何より重要なのは、その最大の被害者は教師ではないということである。誰あろう、それは生徒達である。私も高校教師であった時に何度もそのような理不尽な場面に遭遇した。

しかし、現在は予備校の講師である。
価値観の違いから嫌々受講されて、しかも私の指導どおりに学習をしないために成績が上がらないのを間接的に批判されても私としては何の対応もできず、そうした生徒のためにいつも憂鬱な気持ちで授業に臨むのでは私の授業に信頼を寄せる他の多くの受験生に対して決していい影響はない。

万民に通用する指導法や教授法は必ずあるはずだが、万民に好かれる人間はいない。だから私は考えうる万民に通用する指導法、教授法を受験生に示し、その点のみで予備校講師としての私を評価して欲しいと常に生徒に言っている。つまり、受験生の大学受験合格という目的を満たす指導、教授をおこない、それ以外を講師選びの基準にしている受験生には講師の変更をお願いしているのだ。こうすれば、最大数の生徒を合格に導き、かつ少数の生徒は嫌な思いをしなくてもよくなる。また、私の授業が受験生にとって常に最大公約数となるためには自身の指導や教授法を磨き続けなければならないので、結果その洗練された指導は、より多くの生徒に還元されていくことにもなる。

よって最大公約数の授業で生徒の満足度と成績を必ず上げるというのが私の授業スタンスである。

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