早稲田大学など難関私大の合格者は受験日本史とどのように向き合い、勉強していたのか。 土屋文明先生の授業を中心とした日本史学習を各時期にわたり詳細に調査。 合格した先輩たちのサクナビ学習の流儀を一挙公開します!
情報と妄想
とかく人間とは自分にとって都合のいいことしか聞こえないものである。
大学受験は自分と大学側、予備校や家庭教師の契約で情報の内容や責務の所在を1つ1つ確認することはない。自分にとって受け入れがたい内容や責務についての説明に耳を塞ぎ、履行しなくても他人に迷惑はかけないし、誰からも批判されることはない。そのため自分の考えや行動を正当化、もしくはそれに近い情報や意見は受け入れ易く、責務を伴う情報に対しては意識的に(時には無意識に)排除されることが多い。
自分に都合のいい情報だけを集めている時点で、受験学習において自らの不作為を正当化しようとしていることに気がつくべきであった。妄想を膨らませていただけである。たとえ正しい情報であっても“自身の都合のいい”情報だけを集めている限り、決して正しい結論を導けず敗北する。誤った情報で行動するのと結果は同じなのである。
これが、受験生が受験期間中に“何度も陥る”誤りである。
大学受験は未知の体験だった。
ならば受験に対する自身の考えや行動の基準となる経験が無いに等しかったはずである。低い経験値や似て非なる経験値から導き出される考えや行動で勝利する確率は極めて低い。ましてやその考えや行動を正しい方向へと導いてくれる意見や情報にある自身の責務を、『自分にとっては都合の悪いモノ』と遮断してしまっては勝ち目などあるわけがないのである。
情報に含まれるメッセージは自分に足りない経験値を最小限の労力で補う指針を与えてくれる羅針盤だ。自らの責務を伴うメッセージを謙虚に受け止め行動すれば敗北することはなかったのである。
悪魔の天秤
毎年といっていいほど聞かされる敗者の弁がある。
「日本史はできたのだけど英語ができなくて受験に失敗した。」「日本史はすごくよかったが国語で失敗した。」自身の失敗を謙虚に受け入れ、反省点を明確にしているように見えるが、こうした発言をし続ける受験生は再び受験で失敗することが多い。それは何故か。
彼らは決して不合格となった大学の日本史問題を正確に自己採点したのではない。ではどうして日本史だけができたと言えるのであろうか。答えは簡単である。「英語や国語よりはできた感じがする」ということだけなのである。日本史が得意科目なのではない。英語や国語がまったくできなかったのだ。相対的にみれば日本史が他の教科に比べて「まし」だったということにすぎない。科目的に合格点に達していたかどうかの反省などそこには全くないのである。
そして同じ過ちが今年も繰り返される。
私はこれを悪魔の天秤と呼んでいる。天秤はどちらが軽いか、重いかということしか分からない。一方が軽ければ、それほど重くなくてももう一方が傾いてしまう。合格するだけの基準にも足りていないにもかかわらず傾いた方を得意科目と錯覚してしまうこの天秤は、受験期間全般に学生の机の上に現れる悪魔のはかりである。
全教科的な学習の不備が積み重なると、この天秤は現れる。そして、この悪魔の天秤で自分の学力をはかりだすともはや正常な学習サイクルを作りだすことができずに、敗者への道を突き進むことになる。
他教科との相対ではなく、合格に必要な絶対的学力が、受験科目の1つ1つにおいて足りているのかどうかを客観的に把握し、学習しなければいけなかった。そうしなかったからこそ、自分でも気づかずにこの悪魔の天秤で自身の学力をはかり、必要な学力をつけることができず失敗したのだ。
無知の極み
自信に満ちた勇気ある行動によって歴史はつくられる。
しかし、歴史上の勇者達は、実は常に内面に恐れを抱きながらそれを振り払い行動をしていた。恐れるがゆえに情報を集め分析し、万全の対策を講じて最後は勇気をふりしぼり行動していたのである。
「恐れ」は自分に降りかかる危険を知らせてくれるシグナルである。そして、経験や学習を積んだ人間の「恐れ」はより正確に自身の危険を知らせてくれる。ゆえに人間はその危険の内容を冷静に分析し、学習を深め、自身に最も有利となる戦術を立て危険と立ち向かうことができるのだ。
多くの受験生もまた果敢な行動をとった。
だが、歴史に名を残した者とは異なり合格者掲示板にすら自身の名を残せなかった。。
それは自信に満ちた行為の根源が、己の“無知の極み”にあったからだ。。
無知ゆえに危険を察知できず、その対策を怠った。。
危険は克服されず、無謀な行動ゆえの敗北。。
敗北した人間は決して勇者と賞賛されることはない。。
愚か者と嘲笑されるのである。
お化け屋敷の中を進むときに大声を出して歩く自分を想像してみるといい。。
そこには、みじめで、情けない、弱々しい自分がいる。
。
決して自信があるから声を張り上げているわけではない。。
降りかかる危険を認識できずに怯えているのだ。。
そして、出口には災難を逃れて安堵している浪人生がいた。。
だが、災難は去ったわけではない。。
来年、再び自身の前に現れるのだ。
あなたは大学受験という“現象”を正確に把握できているのであろうか。。
また、その危険(リスク)とは何かを認識できているであろうか。。
怯え竦んでも、根拠なき自信をもって立ち振る舞ってみても結果は変わらない。。
無知を受け止め、根拠なき自信を戒め、怯えずに恐れよ。
勝者の極意である。