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出版までの長い道のり

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1.はじめに

 2004年7月某日、ある出版社の編集会議の机上に私の参考書があった。会議の話題はもっぱらその参考書のことで終始していた。「どうしてこの価格(1,450円)でこの参考書が作れるんだ」「こんな価格で利益がでるのか?」「いったい何冊売れるのか」、と。

  4色フルカラーの史料篇、ほぼ同ページ数の解説篇と60題以上の問題集。この種の参考書は彼らの経験則では2,300円前後で、5年以上かからないと資金が回収できないと考えられている。しかも学参業界ではまことしやかに言われている1,000円を超えると急に売れなくなるというゾーンを450円も超えているのだ。しかし、私はその陳腐な議論が交わされる1年以上も前にこの参考書が1,450円で出せると確信していた。それも日本ではなく、中国上海の地で。

  安くなければ売れないと、完全とは言いがたいものを受験生の不安につけこみ受験期に大量投入し、あいかわらず多くの返本に悩まされる出版社。予備校講師の集客力だけを皮算用し、根拠のない価格の呪縛にいまだとらわれ、値づけを行う面々。有名講師だから売れるんでしょと皮肉る関係者。

  その方たちは知っているだろうか。私がこの1年半多くの受験生からの声に耳を傾け、印刷関係の韓国人や中国人と片言の英語と漢字の筆談で取引話をまとめ、製紙会社の部長に直談判して「何銭単位」の値引きを引き出し、夏の暑い時期に取次会社をまわり、参考書の出版後は関東近辺の20もの書店に自らポップを付け替えに土曜日を費やしていたことを。

  それは自分の金儲けのためだろうって?そう思うなら自身で同じことを試されてみるといい。生身の人間との交渉ごとは安全な自宅からキーボードで自分の言い分だけを仮想世界に吐き捨てるのとはわけが違う。憂鬱な気持ちをふりはらって先方に電話をかけ、怪訝そうな顔をする自分よりはるかに若いアルバイトの店員にも笑顔で接して交渉するその真意とは何か。私は、前作の参考書の製作、出版・販売過程で生じた疑問とその解決策を自ら実践し、検証しようとしたかったのである。

  これからあなたの知らない世界をお話ししよう。

2.確執

 旺文社が大規模なリストラを行い、優秀な人材が流出した後、予備校講師の間で乱れ飛んでいる様々なうわさを私は真っ向から否定し続けている。現在でも多くの執筆者を紹介し、今後も参考書を出したいと同僚から持ちかけられれば、私は迷わず旺文社を紹介するだろう。それだけ私は自身の参考書製作の際の旺文社の多大なる配慮、英断に感謝している。しかし、参考書が完成してからは旺文社のある部署と私の間に埋めがたい溝が生じていた。

  「使えるっ!日本史史料」の初版の記録的売上げは私の講義を受けている生徒の購入におうところが大きい。こうした状況を一般の受験生にも広げ、他の史料学参を引き離すには、4月の学参が一番動く時期に効果的なプロモーションをする必要があると私は考えていた。それなら部数限定の特別付録(セレクト問題集) を協力書店に置き、販売してもらってはどうか。私は出版社に提案した。

  史料参考書としては初版で記録的な売上げがあったということもあり、この提案は通った。しかし、部数限定の特別付録本を置く書店をどのような根拠で選び、どのようなフォローをしていくのかということは全く教えてもらえなかった。効果的なプロモーションをするための必要条件であるにもかかわらずである。

  そう、埋めがたい溝とは出版社において私が「著者」以上の何者でもないという姿勢であった。印税も先払いしているのだから、出来上がった著作物の流通、販売には口を出してもらいたくないということである。なるほど私は確かに著者以外の何者でもなく、出版物の流通・販売に関してはずぶの「素人」である。しかし、その「素人」をしてもおかしいと思うような箇所が随所にあったのでは著者として気が気ではない。著作者であるからこそ「売れる本」を少なくとも「売れない」方法で販売されたくないと思うのは当たり前のことではないだろうか。学参において既存の方法で売れなくなっている現状を、学生数の減少と経済事情の悪化などで片付けてはいけないと私は前述している。

  何も本屋に1人の学生もいなくなったわけではあるまい。学生にその学参のよさをアピールする工夫が、まだまだ製造者(出版社)や販売者(書店)に足りないのである。既存の流通や販売方法では学参は売れない。新しいマーケティング手法(クロスマーケティング)を出版業界にも取り入れなければいけないと、私は主張してきたが最後まで理解してもらうことはできなかった。 

  企業に勤めている方なら誰もが思い当たるであろう。組織の中には組織の目的とは異なる方向性を持つ共同体が多く存在する。その共同体は秩序を乱す「存在」に対しはヒステリックなまでに拒絶反応を示すことが多い。例えその「存在」が組織の目的にかなうものであってもである。この場合、乱される「秩序」とは硬直化した不効率なシステムであり、同属意識に基づいた居心地のよい環境である。共同体は組織の存続の上にしか成り立ち得ない。ならば組織の衰退は自己消滅を意味しているわけである。ではその組織の衰退はいかにして引き起こされたのか。もう気がついてもいいのではないだろうか。

  己の空腹を満たすために自身のカラダを食べあさっていることを。

  こうして私は自身の主張するマーケティング手法の正しさを証明するために自力で本を出版することを決意したのであった。しかし、本が出版されるまでには多くの困難が待ち受けていたのである。

3.すべては受験生のために

 新しい参考書のコンセプトは「すべての受験生の学習に適合する史料集」であった。そのため、製作当初から汎用性が強く意識された。つまり、この史料参考書と他のいかなる学習教材と組み合わせたとしても、受験生を混乱させることなく、効果的に学習ができる構成が意識されたということである。

  こう書くと驚く人も多い。予備校講師の参考書は「あくの強い」ものが少なからず存在する。それがその本のウリなのだから、講師の色が前面に出でない参考書はかえって魅力がなくなってしまうのではないかとの反論もあることだろう。

  それは大きな勘違いである。講師の独自色というのは実体もしくは映像媒体でのみ伝達しうる指導者の個性やオーラである。それゆえ文字媒体では伝わりにくい。カリスマ通信添削者が存在していないことがその証左である。

  もともと予備校講師が生徒から支持されている理由は「他の講師とは異なる独自の指導法がある」からである。最初から他とはなじみにくいものなのだ。それゆえに映像媒体で発揮される講師の独自色を参考書にだせば、その講師を知る一部熱狂的な信者は別として、多くの受験生には他の参考書と相性の悪い、つまり「使い心地の悪い」ものとなってしまう。参考書は講師の「演出」の道具ではない。受験生の「願い」を実現する手段なのである。

  受験参考書に要求されるのは著者の独自色ではなく、入試データに基づいた情報整理とその解説である。また、教科書や他の参考書、極論すれば他の予備校講師の板書やプリントに対しても汎用性がなければならない。

  製作者である以上、その「思い」は受験生にのみ向けられなければならないのだ。

すべては受験生のために
 『眠れぬ夜の土屋の日本史史料と解説』は史料参考書と解説・問題集の2冊組となっている。学生のみならず、補助教材として使われている学校関係者からも「大変使いやすい」とお褒めの言葉をいただいている。しかし、この参考書の構成は前作、「使えるっ!日本史史料と解説」の反省から生まれたものであったことを知っているだろうか。

 完璧なものなどこの世には存在しない。前作「使えるっ!日本史史料と解説」は考え得るすべての顧客ニーズを満たす史料参考書として製作されたものであるが、誤算もあった。それは、問題集の不備である。史料と全訳をつけて、解説に関連づける。そして史料には入試において空欄で問われる箇所を赤字にしてさらに枠で囲い、下線部設問で問われる箇所には訳の箇所に【 】をつけて、これも赤字にした。こうすれば、赤セルを上に置いて史料を読むと、自然と入試問題も解けるように学習できる工夫がされていた。私はそこで問題集はこの史料参考書には必要ないと考えてしまったのである。また、史料問題をつけるだけの紙面的余裕はもう予算的に限界であった。

 とはいうものの、問題もやりたいと思う受験生もいるであろう。そこで、私は史料参考書にパスワードを記載させて、インターネットで私のHPにアクセスさせて史料問題をPDFファイルで見せることを考えた。PDFファイルは特定のソフトウエアをインストールしていないと見ることができないファイルであるが、当時パソコンのOSとして使われてたwindows xpでは普通にこのファイルを見ることがでたので、この方法ならば紙面と価格の制約にとらわれず、問題を提供できると考えたのである。不完全ではあったが、市販する参考書とネット上の問題を相互に学習させるeラーニングを試みたわけである。

 その頃は一家に一台のパソコンが行き渡るペースでパソコンが普及し、ネット環境もブロードバンドへと移行していた時期である。私は紙面では伝えきれないものをインターネットを通じて補完しようとしたのである。 受験生もそれを望み、完璧な史料学習がこれで完成すると考えた。 そして、これこそが新時代の受験日本史の学習であると信じて・・・。

 しかし、これはまったくの誤算であった。

 史料参考書の売れ行きは落ちることなく伸びていったが、HPのアクセス解析によると参考書の購入者の多くが私のHP上から史料問題を見ていなかったのである。その数は当初予定していたアクセスの半分にとどまっていた。当初、史料参考書だけで十分学習ができているのであろうと結論づけていたが、ある日ふと予備校の自習室で私の参考書を使っている学生をみて愕然とした。・・・学生は私の史料参考書の他に別に問題集を買って、その問題集で知識の定着をはかっていたのである。

 そこにはインターネットは万能と信じて疑わない、ネット信仰の信者と化した、顧客ニーズがどうだのとえらそうにうんちくを吐く思い上がった私の姿があった。愚かであった。本当に思い上がっていた。ほんのわずかの成功にあぐらをかいて使い勝手のわるい教材を提供していたのは誰あろう自分自身ではないか。学生は、自習室や学校など、学んだ知識の定着度合いすぐに確認したいのである。

 親にことわってパソコンの使用許可をもらい、壊すんじゃないかとびくびくしながら操作をしてネットに接続し、見れるかどうかわからないPDFファイルのアイコンをクリックする。「こんな使い勝手の悪い教材があるか!」私は心の中で吐き捨てながら、思い上がったネット学習構想を自身の足でこれでもかと踏みつぶした。

 完璧なもののどこの世には存在しない。しかし、自己満足の見せかけだけの完全性の追求やはじめからできないとあきらめてしまってはサービスを提供する側の敗北である。『眠れぬ夜の土屋の日本史史料と解説』に問題集をつけたのはそうした反省があったからなのである。それも入試で問われたほとんどの問題が網羅されている。史料編と解説編だけではなく、問題編への関連づけも簡単に行えるようにページ数を記した。
問題集の製作にも莫大な時間をかけたのである。

  しかし、誤算はひとつではなかった。

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