HOME > 土屋文明プロフィール

18歳まで・・・・

私は東京足立区に生まれました。
小学校のときから様々な事象に関心を持つ子供でした。図書館などで物事のその原理を調べあげクラスで発表したり、友人に教えてたりしていました。自発的に行動して、当時の社会問題を取り上げ、模造紙に全国の社会問題とその解決策を書いて発表したこともあります。
中学校の時には生徒会長、高等学校の時には球技大会や修学旅行、卒業アルバム制作といった行事の委員長となり、そのすべてを成功させました。教員がつくった案をすすめていくだけの行事が多かった当時、一から生徒で組織された委員会が中心となって考え、教員に説明してその了解をとり、実行していったのです。このように書くと目立ちたがり屋のように思われてしまいますが、目立ちたいというよりはイベントを成功裏に導くためのプロセスを考え実行することに大変興味がありました。
もっといろいろな事を学びたい。当時は少なかった外国留学の夢もありました。決して豊かとは言えない家庭でしたが、両親は何も言わず支援してくれました。しかし、そうした生活は、私の18歳のときに激変しました。両親があいついで亡くなったのです。

惨めだった大学時代

大学時代は私の人生の中では暗黒の時代でした。日本経済はバブル景気に向かって加速していた時代でしたが、当時両親を亡くしていた私は学費と生活費を稼ぐためにアルバイトにおわれ、バブルを謳歌していた人達とは全く無縁な、みじめな世界に身を沈めていたのです。最近は経済危機で景気の悪化が急速にすすんでいるからなのでしょうか、お金がないから大学に行けないと進学を諦めてしまう子供が多いと聞きます。私も当時は全くお金がありませんでした。両親が死んでも保険金もでない、遺族年金もでない。借地に建つ家はボロボロ、屋根の修理もできず、雨が降ると押し入れは雨漏りでぐちゃぐちゃになる。金銭的理由でやりたいことがことごとくできない。何で自分だけこんな辛い思いをしなきゃいけないのだろうと自問自答する日々。本当に惨めで悔しかった。夜中に一人でお弁当を黙々と食べている時に自然に嗚咽がひどくなり涙が止まらなくなったことを今でも鮮明に覚えています。私は地べたに這いつくばりながらも懸命に生きていました。

それでも私が大学在籍にこだわった理由は、将来も惨めな思いをしないため。稼得の選択肢を減らさないためには大学進学は絶対必要なことなのだと考えたからです。当時、大企業での雇用条件は大卒が標準でしたし、各種の資格試験も大卒並の教養が要求されるものがほとんどでした。それに大学に進学していろいろな奨学金が受けられたのです。これで学費の60%をまかない、残り40%と生活費はバイトで稼いでいました。私は国民年金も学生免除を受けず払っていました。悔しかったのでしょうね。払えないから免除お願いしますとお願いするのが。だから目一杯やせ我慢して払っていました。

「天道人を殺さず」とはよく言ったものです。
大学生になるから奨学金も出る。大学生だから好条件のバイトもある。当然、学士号もとれ大企業への就職条件も満たさせる。貧しいから大学に行けないと決めつけないで、貧しいからこそ大学に行ったほうが生活を向上させる機会を多くつかむことができるのです。

塾講師時代

大学在学中はアルバイトが中心の生活でした。生活が苦しく、一時期大学の授業の出席に支障がでることもありました。できるだけ学業に支障がないように昼間の時間ではない職種を選びました。弁当屋、道路工事の保安員、家庭教師と栄光ゼミナールでの塾講師もしていました。教育関係の仕事に興味があったといえば聞こえがいいですが、正直に言えば奨学金では高い学費の支払いに不足していたので、短時間でお金を稼ぐためその道を選んだというわけです。しかし、塾や家庭教師のバイトを通じて教授指導とう点で大いに関心をもったのもこの頃でした。それに当時は比較的自作の教材をつかえたため、生徒のためによりわかりやすい教材を作成することへの興味もわきました。

そしてこの頃、私の講師としての方向性を決める生徒との出会いがありました。これらの生徒は学習能力が低くはありませんでしたが、学習意識・意欲に乏しく成績が低迷していた。マニュアルどおりに教えても成績が上がらず、ご父兄も困っていました。何回もの面談を通じて、私は学習障害の原因が生徒自身(個体)とその個体環境差(家庭状況など、学習に影響する環境)にあるのではないかという仮説を持つに至りました。しかし、その環境差を矯正するため個別指導を行えば費用がかかりすぎるので多くの家庭には不向きでした。一方、個体環境差にあわせたマニュアルを作ればそれは膨大な量となるばかりか、私自身にその作業負担がのしかかります。結局、直接指導できる学習障害を起こした数人の生徒の成績を向上させることはできましたが、塾講師の期間中は根本的な解決策を見出すことはできませんでした。

高等学校専任教諭時代

大学卒業後に勤務した都内の私立学校で専任教諭となり日本史を担当。当時、かつての商業高校であった古いカリキュラムが残存する不利な状況にもかかわらず、当時の全国模試日本史平均点で、ほぼ毎回全高等学校順位を3位以内という実績を残しました。当時の商業高校といえば、進学よりも家業の商売継承や普通高校への進学が困難な学生が多く通うという、必ずしも教科における学習意識が高いとはいえない学生や保護者が多かったので、私は長期にわたって彼らへの直接、間接的なアプローチを通じて、自身の教科指導の検証を行い続けました。その結果、当時から指導の内容と生徒や保護者の意識、事後の学習の重要性を改めて認識しました。その後は、仮説と実証を繰り返すことで指導力をさらに磨き上げました。

専任教諭となった3年目にして進路指導部大学受験課に任命され、その後入学対策も担当。これは当時としては異例の大抜擢でした。当時の経営層の理解や同僚の協力、近隣の高等学校の進路指導部長の多大なる支援を受けて、受験競争が激しく大学入学が難しい時期であったにもかかわらず、10人にも満たなかった進学実績をのべ120人超へと飛躍的に伸ばしました。

しかし、そこには進学実績を意識するあまり生徒個々の学習環境に目を向けることなく受験戦争をいいわけに生徒に無理な学習を強要し、できない者を人生の敗残者のように煽り立てる自分がいました。子供の個体環境差には目もくれず結果だけを追求し、結局は自分自身への評価だけを気にしていることに気がついたのです。ある年、「落伍者」を自称した1人の生徒が退学し、その後は生活が乱れていったという話を聞いたとき、私は自分自身を責め続けました。

また、学校教育としての高等学校の役割を果たしつつ、全教科的な受験指導体制への移行には批判的な意見も多くありました。私はその調整を試みましたが果たせず、当時自身が行っていた苛烈な受験指導そのものへの疑念と自責の念もあり、志半ばで退職しました。社会的に学校教育に受験指導を期待する昨今、表面的には受験教育をうたう高等学校が多いのですが、実際は内部の教職員による意識の差も激しく、決して効率のよい受験指導が行われているわけではありません。

予備校講師時代

私立高校を退職してすぐ予備校の講師になった私はまさに水を得た魚でした。
受験指導だけに専念することで、入試問題研究や教授指導法に多く時間を割くことができるようになったからです。私が最初に在籍した学校法人河合塾では日本史科の講師がチームとなって暗黙知を集合知にする活動が行われており、新人講師である私に指導についた講師の影響を強く受けて、日本史の専門知識もさることながら受験日本史のノウハウとプロ意識を学びました。私は今でもその講師を師と仰いでいます。私の予備校講師としての土台がまさにここで作られたといっても過言ではありません。その後、講義は多くの受験生の支持を得ることになりました。講習会の締め切りのスピードが競われていた当時、私の講座は英語科をも抑え全国で一番早く締め切っていました。

株式会社東進ハイスクールでの1年間は私の講義スタイルを革命的に変化させました。この予備校は人工衛星を使い、有名講師の講義を全国の1000を超える提携予備校へ配信するビジネスモデルをすでに展開していました。私は対面の生授業ではなく、収録された講義を小さなブースで見ることになる受験生の学習便宜を考え、板書中心の授業から板書を利用しながら情報整理ノート(サクセスナビゲータ=サクナビ)に受験傾向や情報内容を加えて理解させていく講義スタイルを作り出しました。さらに受験生が受ける大学ごとに異なるオリジナルのノートが完成する講義スタイルは多くの受験生の圧倒的な支持をうけ、度重なる改良を加えながら現在に至っています。また、講義内容や指導方法にも工夫を加えたことで、この予備校ではビデオの貸し出し回数で1位となることが多かったと聞いています。

そして現在、学校法人代々木ゼミナールではこうして洗練された講義を最も多くの生徒に教授できる機会を与えられました。私はこの予備校で受験生の個体環境差を埋める講義スタイルを確立させました。人気講師とその講師の指導力に惹かれた生徒が集まるこの予備校で、本部校舎をはじめ横浜・大宮・津田沼など主要校舎でのライブ授業だけではなく衛星、インターネットを通じて全国の代ゼミ校舎や提携予備校やサテライン予備校、高等学校に私の講義が配信されています。

日本史講師土屋文明の講義

私の受験指導(講義)の特質は「難しい原理や内容を第三者に最もわかりやすく伝えること」にあります。それは「大学受験のための日本史を教える」という枠にとどまらず、政治や経済など幅広い分野に及びます。また、私自身も異分野で手に入れた知識を大学受験指導以外の個人的社会活動に活用し、さらにそこから得た知識や原理を再び大学受験指導に還元していく。同じ歴史を教える講義でありながら、私の講義がわかりやすさで他を圧倒する素地がここにあり、全国の多くの受験生に支持され続けているのはまさにこの点であると考えています。

また、受験生の学習環境面に常に目を向け、成績を上げる学習コンテンツやノウハウの開発、提供を行っています。史料参考書『眠れぬ夜の土屋の日本史 史料と解説』、新日本史学習教材『キュービックアシスト』は毎年多くの受験生や保護者の方からこれらを使って成績が上がったとの感謝の言葉をいただいています。現在、資金を投じたデジタル教材の開発も進行中です。こうした私の講義・指導や活動が評価されて全国の高等学校の教職員や塾・予備校関係者の、そしてなにより受験生を子供にもつ保護者の方のご支持と信頼を得るにいたりました。


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