北条時政の墓
今週のお墓は北条時政の墓です。
お墓は時政自身が奥州藤原氏征伐祈念のために建立した願成就院にあります。ここには取材で5,6回来ているのですが、行くと必ず晴れるのです。なんか歓迎されてる?でもこれって喜んでいいのかな。。。
さて、北条時政といえば、源頼朝の妻政子の父親で、鎌倉幕府初代の執権でしたね。北条時政はもともと頼朝が蛭ケ小島に配流されたときの監視役でしたが、彼が京都に出仕している間に娘の政子と頼朝がラブラブになり子供までできちゃいました。今はやりの「できちゃった婚」で時政も2人の仲を認めざるを得ず、その後の平氏追討の戦いの間は頼朝の側近として活躍。1185年には頼朝の代官として上洛して朝廷と交渉し、地頭(国地頭)の設置を認めさせました。授業では守護地頭の設置の史料(『玉葉』)でやりました。
頼朝の死後、時政は2代将軍頼家の外戚の比企能員とその一族を殺害。頼家を廃して3代将軍に実朝をすえ、将軍の外戚として幕府の実権を握りますが、この頃から時政の後妻の牧の方をめぐり時政と子の義時、政子との間に埋めがたい溝ができていました。それは牧の方の娘婿平賀朝雅の幕府内での権力の拡大が原因です。
当時京都守護となっていた平賀朝雅は朝廷との親交が深く、平氏の残党が伊賀・伊勢でおこした反乱を三日足らずで鎮圧し(三日平氏の乱)、幕府の代表者としての権威を高めていきました。時政は後妻の牧の方と共謀して将軍実朝を廃して平賀朝雅を新将軍にしようと画策しますが、御家人たちの多くはこれを支持せず、また義時・政子の反対にあい断念。時政の計画は失敗に終わり、政界から身を引いて伊豆北条の地に牧の方と隠退。その地で生涯を終えます。
願成就院は北条氏の氏寺としての性格を持ち、運慶作の諸仏も現存しています。しかし、その後北条早雲の争乱や豊臣秀吉の小田原攻めの際に焼失し、江戸時代末期に北条氏の末裔によって再建されて現在に至っています。