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源頼政の墓

場所:京都府宇治市 JR奈良線 宇治駅徒歩10

今週のお墓は源頼政の墓です。このお墓は宇治平等院の鳳凰堂の裏にあります。当初からあったわけではなく江戸時代に作られたお墓です。兵庫県(頼政の地元ですね)の長明寺にも墓所があります。写真を撮っていたら外国人がこの墓の人物はどうゆう人だというので、当時の源氏の家柄ではあり得ないほどの出世をした人(従三位、源三位になっています)だと言いたかったのですが、英語がしゃべれないので頼政は「NICE GUY」だと言ったら、とっても冷たい目で見られました。

源頼政は源満仲の子で、最強の鬼と言われた酒呑童子を退治した頼光の流れを引く摂津源氏です。頼政自身も鵺(ぬえ)と呼ばれる妖怪を退治した伝説が『平家物語』でも伝えられています。歌人としての才能が豊かで、頼政の詠んだ歌は勅撰和歌集に多く残っています。

当時、上皇と結びついていた伊勢平氏(平正盛ら)の台頭で源氏勢力が後退するなかにおいても、頼政の父は院と良好な関係を保ち、頼政も出世をしていきます。その後、保元の乱、平治の乱を通じて頼政は鳥羽法皇→後白河天皇→二条天皇に近い立場を取り争乱に参加します。実はこれ、平清盛と同じ路線なのですね。それゆえ平氏政権下においても源氏の重鎮として、主として軍事(といっても警備ですが)面で活躍します。その結果、破格の待遇である従三位の官位に昇進しています。

しかし、平氏政権の横暴に堪えかね、当時安徳天皇即位で天皇になる道が絶たれた後白河法皇の三男以仁王とはかり平氏打倒へと進んでいきます。源頼政と結んだ以仁王は平氏打倒の令旨を諸国の源氏、寺社へと出しますが準備不足は否めず園城寺へ立て籠もることになります。当時、園城寺は反平氏だったのです。その後平氏側の懐柔などにより園城寺で身を守ることができなくなった以仁王と源頼政は夜陰に紛れ園城寺を脱出。途中宇治の平等院で休息をとったのが仇となり平氏に追いつかれ、激戦の後、頼政は致命傷を負い、平等院で自刃します。享年77歳。

右の写真は頼政最期の時、扇をひいて自刃したと伝えられる扇の芝です。ここで辞世に句を詠んだとも伝えられています。

『平家物語』には彼が辞世に詠んだ歌が書かれています。

埋もれ木の 花さくこともなかりしに
みのなるはてぞ 哀れなりける

埋もれた木々に花が咲かないように自分の生涯も華やかでななく、かなしいことであると一般に解釈されています。本当にそうでしょうか。この歌は、花を咲かせる生涯ではなかったけど、しっかり実を結んだ最後であったからこそ見事なのだと、あえて私は解釈したい。なぜなら頼政が奉じた以仁王の令旨はその後平氏打倒の起爆剤となり、源氏再興の呼び水ともなったのですから。


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