源頼朝の墓
今週のお墓は源頼朝の墓です。
言わずと知れた鎌倉幕府の初代将軍です。
さぞ武家政権を樹立した人にふさわしい墓があると思いきや、行ってみると大倉山の中腹に石塔がぽつんとあるだけです。取材は結構前だったので、周りの環境も整備されていませんでしたし、石塔は苔むしていました(今は管理が行き届いてるようですが)白旗神社(後述)の旗がやけにまぶしかった取材日でした・・・。
源義朝の三男として生まれた頼朝は初陣の平治の乱で敗れ、逃走先で捕まるも平清盛の継母池禅尼の嘆願で処刑を免れ、伊豆国蛭ケ小島に流されました。1180年以仁王の令旨をうけに挙兵。石橋山の戦いで大敗し、山中の洞窟に潜んでいたところを平氏方の梶原景時(後に鎌倉幕府の軍奉行)に見つかりますが、景時は頼朝を見逃し頼朝は安房(千葉県)に逃れます。そしてここから頼朝の快進撃が始まっていくのです。
その時、歴史が動いた!
今日はこの辺でお別れしたいと思います・・・。
(話が長くなるので、続きは授業でやりますね)
『吾妻鏡』には頼朝の死は落馬が原因だとされていますが、確証はありません。頼朝の遺体は法華堂に葬られました。写真の石塔は二学期に藩政改革でもでてきます、薩摩藩主島津重豪が建てたものです。何で島津の殿様が建てたかというと、島津家のご先祖様の惟宗忠久はそのご落胤だと島津家の史料に載っているからです。源頼朝は結構なプレーボーイだったようで、あちこちに愛人をつくっていたようですから可能性はあるかもしれませんね。その石塔の前の法華堂は明治初期の廃仏毀釈運動によって壊され、その後頼朝を祀る白旗神社が建立されました。お墓に行くと、白旗神社の旗があちこちにあるのはそのせいです。
そういえば、江戸時代の鰯(いわし)漁が盛んだった場所に九十九里浜がありましたね。かつて頼朝がこの地を訪れたときにあまりに長い海岸線に1里(109㍍)ごとに矢を突き刺していったら99本になったという、かなりウソっぽい名前の由来があります。海岸線は60㎞あるので、矢をさせば、550本必要になるというかんたんな計算ができないようです。頭に99本のいわしが刺さった人が多くいたからってほうが、現実みがあっただろうに・・・。