ホーム >今週のお墓 >阿弖流為(アテルイ)首塚

阿弖流為(アテルイ)首塚

場所:京阪電鉄 「牧野駅」徒歩7分

そろそろ夏期講習の申し込みですが、講座をきちんと検討していますでしょうか?日本史講師、土屋文明の夏期講習は通常のレギュラー授業の焼き直しではなく、特別プログラムとしてこの時期の受験生に真に役立つものを提供しています。早稲田大学など難関私大合格者の感想でも分るとおり既存の知識を関連づけてさらに学力を向上させて解答力を上げている講座となっています。『土屋文明の日本史 政治・経済・外交テーマ』『土屋文明の日本史 テーマ文化史の克服』『土屋文明の日本史 正誤問題の克服〈センター及び難関私大攻略 前編〉』『土屋文明の日本史 戦後史の攻略』などの講座の受講を検討下さい。

さて、今週の墓は阿弖流為 (アテルイ)の首塚です。牧野公園のど真ん中に首塚があります・・・。ブランコの正面に。。。この公園、かつては片楚神社の社地で現在も片楚神社が管理と祭祀を行っているそうです。

教科書にも載っているこの人物。実は、歴史書には2回程度しか名前が出てこないのです。しかし、そのデビューがあまりに鮮烈で、また英雄坂上田村麻呂によってかばわれ、悲劇の最後をとげた人物であったと伝えられているためか、現在でも演劇などさまざまな形でとりあげられています。

阿弖流為(アテルイ)の鮮烈なデビューは、桓武朝の第1次蝦夷征伐の征東大使紀古佐美率いる5万を超える軍勢を2000にも満たない兵力で打ち破るというものでした。まあ、オリエンタルラジオ風にいえば、「アっちゃん(アテルイ)、今日も言ったげて」「ああ、聞きたいかエゾの武勇伝」ってとこでしょうかね。また、紀古佐美にしても桓武天皇に急かされなければ無謀な深追いで惨敗することはなかったでしょうね。

その後、第2次、3次蝦夷征伐で坂上田村麻呂が活躍。ついに胆沢地方を征服し鎮守府が多賀城から胆沢城へと移されました。このことは先週のお墓でお話したとおりです。たびかさなる蝦夷征伐によって蝦夷側の疲弊も相当なものであったのでしょう。ついに蝦夷の族長阿弖流為(アテルイ)と副官母礼(モレ)が500人を連れて坂上田村麻呂のもとに投降してきました。坂上田村麻呂は阿弖流為と母礼を平安京に連れ帰り、帰順した2人を東北へもどし東北平定に利用しようと2人の許しを朝廷に請いましたがかなわず、河内国で処刑されました。現在では枚方市宇山が有力地とされ、牧野公園のこの首塚はそのすぐ隣の牧野町にあるのです。

周辺地域史の見直しが進められていく中で、アテルイは朝廷に従わぬ反逆者から地方自治を死守するため朝廷に立ち向かった悲劇のレジスタンスとなっていったというわけです。

 


土屋文明プロフィール

土屋文明の日本史授業風景

日本史の授業をもっと観る

講演・執筆などのご依頼はこちら

過去問ライブラリー

オリジナル単科ゼミ 「日本史の戦場」 講義後のコメント

「土屋文明の日本史の戦果」講義後のコメントを動画でお届けいたします!