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坂上田村麻呂の墓

場所:市営地下鉄東西線椥辻(なぎつじ)駅 徒歩20分

今週のお墓は坂上田村麻呂の墓です。現在は坂上田村麻呂公園となっています。このお墓は駅からの遠くてたどり着くまで苦労しました。坂上田村麻呂に会うための試練なのでしょうね。

坂上氏は古来から武門に秀でた家柄で、壬申の乱にもその名がみられます。奈良時代には律令国家支配を東北に及ぼそうとする政府とそれに抵抗する蝦夷との間で激しい戦闘が繰り返されました。光仁天皇のころから蝦夷征討は本格化しますが、桓武朝の第1次蝦夷征討は阿弖流為(アテルイ)が率いた蝦夷に政府軍は大敗しました。坂上田村麻呂は次の大伴弟麻呂を将軍とする第2次蝦夷征討に征討副使の一人として征討軍に従軍し、副使ながら大活躍をしたとの伝承があります。797年には征夷大将軍に任じられ、その後の第3次蝦夷征討でも功績をあげて、北上川中流域に胆沢城を築き鎮守府を多賀城から移して律令政府の支配を一気に北上させました。

その間、蝦夷の族長阿弖流為(アテルイ)と副官母礼(モレ)が田村麻呂のもとに投降するという思いもよらぬことがおこりました。田村麻呂は投降した阿弖流為と母礼を都へ連れて帰り、朝廷に恩赦を願いましたがかなわず、二人は処刑されてしまいます。この二人は後、悲劇の蝦夷首領として伝説化されていくのです。その二人の首塚と伝えられている場所は現在大阪の公園の中にあります(ちょっと怖い・・・)。来週のお墓はその場所にしましょうね。

坂上田村麻呂は804年に再び征夷大将軍に任じられ、蝦夷征討の準備をしますが、授業でもお話ししたあの有名な「徳政相論」で蝦夷征討は中止となります。蝦夷征討はその後文室綿麻呂によって完了しました。
坂上田村麻呂は810年に起きた薬子の変に際しても嵯峨天皇側につき出兵し、平城上皇の上京を阻止するなどの功績があります。なお、この際、平城上皇よりとして禁固刑となっていた文室綿麻呂の助命を乞い彼を助けています。なんとあの京都の清水寺も坂上田村麻呂の創建です。なんか、史実だけでみるとすごく強くていい人ですよね。また、田村麻呂のイメージである「ひげ、赤、義理堅い、馬、軍神」から『三国志』に出てくる劉備の義兄弟関羽を彷彿させますね。

坂上田村麻呂は811年病気で亡くなります。54歳でした。嵯峨天皇は1日喪に服し、政務をとらず坂上田村麻呂の死を悼む漢詩を作っています。そしてこの日、勅命で坂上田村麻呂は京都宇治郡栗栖村(現山科区)の地に武器甲冑を着たまま立ち姿で葬られました。軍神坂上田村麻呂は死後もなお帝都を守護するにふさわしい人物だということでしょうね。

なお、『清水寺縁起』の記述と平安期の地図の照合により、近年、田村麻呂の墓はこの場所ではなく、少し離れた山科の西野山古墳だという説もあります。この古墳からは大正時代に黄金の装飾をほどこした大刀が出土していて有力な貴族かその一族のお墓ではないかと考えられてきました。史実との一致も多く、私もこちらの方が田村麻呂の墓ではないかと思います。

だったらそちらを書けよって感じですかねぇ。


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