道鏡塚(道鏡の墓)
冬期直前講習会のテキスト作成がなかなか終わらないので、サイトがなかなか更新できませんでした。教科編集部にも迷惑をかけてしまい反省です。。。でもいいテキストができました。受験生の皆さんは安心して冬期・直前講習で私の日本史講座を受講下さい。
さて、今週のお墓は、日本史の授業では必ずでてくる道鏡の墓(道鏡塚)です。(道鏡の墓はでませんけど。。。) 2月の取材だったので、ものすごく寒くてしかも帰りは大雪。タクシーも拾えず、死ぬかと思いました。
さて、道鏡といえば、あの物部守屋の流れを引く弓削氏の出自でしたので弓削道鏡とも言われます。法相宗の僧でありながら、占星術(宿曜秘宝)や気功(禅行)などに秀でていたようで、天平勝法5年(753)に看病禅師となって内道場に奉仕しています。分かり易く言うなら、宮中で天皇家の病気を治す病院の医師となって勤務したということです。
この時近江国の保良宮に行幸していた孝謙上皇が病気となり、看病禅師だった道鏡が上皇病気を治療したことが契機で天皇の寵愛を受けることになります。当時は藤原仲麻呂が権力を持っていた時期です。変に上皇にやる気をだされても困りますので、淳仁天皇に孝謙上皇をいさめさせましたが、却って上皇が反発。孝謙上皇中心の政治主導が宣言されてしまいました。仏教界も道鏡・上皇側に切り崩されて行く中、藤原仲麻呂は軍事力で政権奪還をはかろうとしますが、失敗し殺されます。これが恵美押勝の乱(764)です。そういえば藤原仲麻呂に冷や飯を食わされ続けていた吉備真備は、この時仲麻呂討伐軍として活躍しています。
さて、称徳天皇治世下において道鏡は太政大臣禅師ついで法王に任ぜられ、腹心の僧らと仏教を中心とした政治を行いました。ここは議論がある所ですが、称徳天皇は父である聖武天皇の意思をついで仏教による鎮護国家を押し進めようとしたのだと私は考えています。仏教に守られた国の建設を道鏡に託したのでしょう。そのために国家の最高位である天皇の地位が必要だと考えるようになり、宇佐八幡宮の神託へとつながっていきます。奈良時代のどろどろした政治状況にあって、もしかすると称徳天皇と道鏡だけが純粋に国家のことを案じていたのかもしれませんね。
しかし、道鏡が天皇になることは叶わず、称徳天皇の病死後、彼は下野国薬師寺別当に命じられその赴任先で亡くなりました。彼のお墓と伝えられている古墳は現在龍興寺の境内にあります。近くには孝謙天皇神社があります。道鏡と共に左遷された天皇の女官篠姫・笹姫が天皇崩御後分骨した骨が御神体だそうです。右の写真は孝謙天皇神社にある孝謙天皇墓です。
道鏡が左遷された下野国薬師寺に残る戒壇院
(大雪時撮影 (T_T))