責任の按分

有限責任下に跳梁する無責任

資格取得のための専門学校であっても大学受験の予備校や塾であってもお金を支払った者に対して教育サービスを提供することには変わりはない。しかし、その教育サービスを受けた人間に対してどのような責任をとるかに関してはさまざまな「逃げ道」が用意されている。そしてその逃げ道こそが社会的な教育支援業に対する不信感を増長させ、現在の状況にいたっていることを関係者は認識しているのであろうか。今回はこのことについて触れてみたい。

有限責任とは、例えば会社の債務を社員や株主などが一定の額以上に支払いの責任を負わないという概念である。これを受験教育に当てはめるならば、予備校が受験生と大学合格に必要な学力をつけさせることで成立した契約を履行する際に予備校はほぼ無限の責任(大学に合格させる)を負うが、講師は一定以上の責任を負わなくてもいいということになる。

しかし、これでいいのだろうか。
大学受験予備校や塾は今まで債権者(権利者)である受験生やその親に無限責任を負ってきたのであろうか。また、有限責任下にある予備校講師が免責される一定以上の責任(あるいは免責されない責任)とはそもそも何であろうか。

 受験生には個体環境差が存在し、同じ教育を施しても常に同じ学力向上は望めない。教育内容やその実践方法もいくらマニュアルで縛りをかけたとしても講師間では差がある。ゆえに、予備校や塾は本来無限責任である志望大学合格を倫理道徳的なものだとすり替え、受験生やその保護者と契約する際に交わした教育サービス(カリキュラム)の義務を有限責任として果たしますと提示してきたのである。その結果、講師はその教育サービスを請負うだけの存在でしかなくなり、自分達で都合のいいように免責事項を「書き換える」ことで受験生の結果に全く責任を負わないという無責任な状況が生まれてしまった。有限責任下に跳梁する無責任である。

 「私はテキストに書いてあることを、学校の先生よりも分かりやすく教えた。だからその内容を理解できない生徒は努力(能力)が足りない。」などといって免責を主張するのは有限責任を盾に取った「無責任」そのものなのだ。そもそもこの類の人間は、テキストを最後まで終わらせることができず、有限責任すら果たしていない。こうなるともはや責任云々の話ではなく、契約不履行であり、それを知りつつ放置することは犯罪に近い。

受験教育サービスを業として提供するならば結果とは大学合格であって、そのプロセスで受験生や保護者に満足をあたえることではないことは最低でも認識できていなければならない。債権者(受験生やその保護者)は志望大学合格という結果に「満足」するだけだからだ。

 昨今、大学全入、少子化や経済悪化によって予備校や塾へいく生徒が減少しているとする教育評論家がいるが、これはまったく的外れな議論である。効果を検証しない「有限責任教育サービス」しか提供できず、安価な労働力を用いて利益を追い求める予備校や塾と無責任な講師に対する社会の信頼性が著しく低下したことが原因なのである。受験生の保護者が何を求めて予備校や塾にお金を払って受験生をそこに通わせているのかを教育支援業に携わる者は今一度考え直さなければならだいだろう。

 結果には責任をもつ。しかしながら講師が負うその責任とは、可能な限り個体環境差に応じた教育サービスが、予備校や塾のカリキュラムや心地のいいだけのうたい文句を超えて受験生個々に直接的、間接的に行われ続けていたという有限責任である。

私を含め予備校講師はこのことを心しておかなければならない。


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